「普通の〇〇」は僕らに儚い夢を見せてくれる。

普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。 という記事を読んだ。
グイグイ読ませる素敵な文章だ。

「普通の世界」は偏在し、実在しない。

普通の女子大生なんかじゃない。
特別な女子大生が「普通の人」のフィールドに降りてきて、
約束された美しい勝利を手にしているんだ
と、hankakueisuuさんは指摘する。
hankakueisuuさんのいうとおり、
早稲田に入って、綺麗な顔立ちをしている女子大生が「普通」であるのなら、
僕だって、早く、その「普通の世界」に誘って欲しい。
「普通」を騙ることで普通の人間を抑圧する、という指摘はその通りだ。
でもね、とも思う。
本当は、
「普通の世界」なんてきっと至るところに存在していて、
「普通の世界」なんてきっとどこにも存在していないんだろう。
上澄みの層には上澄みなりの平均があって、
沈殿物には沈殿物なりの平均がある。
そしてそれが僕達の呼ぶ「普通の世界」だ。
イチゴの世界には、より甘いイチゴの世界があって、
より甘いイチゴの世界でも優・良・可が分けられる。
お互いに他の箱のいちごなんて知りやしない。
ただそれだけのことだ。

「普通」は下位のフィールドで自分を「最強」にする。

ただ、それぞれが別の「普通」の世界に生きているからこそ、「普通」は残酷だ。
なぜなら「普通」という言葉が、それぞれが生きる別々の世界の垣根を飛び越えて広まるからだ。
当たり前のように使った、「普通」という言葉が、
本当になんでもない世界に生きる「普通」の人々を、
締め上げ、揺さぶり、(かりそめの)希望を与える。
もちろん、その希望はその人の才能を目覚めさせ、本来なら成し得なかったような成功をもたらすこともあるかもしれない。
それだけならまだいい。
「普通」という言葉は、往々にして普通の人を「最強」にする。
なぜなら、それぞれが生きる別々の世界において「普通世界の成功者」としての肩書きを得るからだ。
ある日、甘いイチゴの世界で良のラベルを付けられた一粒がいう。
「私は(甘いイチゴの世界の、良という箱の中では)普通のイチゴですが、
有名パティシエによって素敵なショートケーキの主役になりました」と。
その時「普通」という言葉は、イチゴ界全体に広がり、驚きと賞賛を持って迎えられるだろう。そして、ショートケーキの上のイチゴは、自分がイチゴ界のなかでどれ程の位置に立っているかを、初めて確認するのだ。

「わたしは普通のイチゴなんかじゃないんだ」と。

弱い者たちが夕暮れ、更に弱いものを叩く。

じゃあ、甘いイチゴの世界の可のラベルを付けられた粒たちはどうするか。
ブルーハーツが歌っている通りだ。
「あたしはあんまり甘くないイチゴなんだけど、タルトにしてもらいました」という。
イチゴはもういい。
「俺ただの〇〇だから」、「しがない〇〇だもんで」、「クズだから」とかいえば、本当の「ただのしがないクズ」たちを従えて、自分たちは栄光を勝ち取ることができるんだ。
これが必勝法。
「いやいやいやいや、僕のほうが数倍クズですから。」なんてね。

鶏口となるも牛後となるなかれ。

 鶏口牛後。つまり、大きい集団の後ろを走るくらいなら、ちっちゃな集団の先頭を走れっていうこと。これって、自分より下位のフィールドで一番になるっていう、必勝法のことを表してるのだろうか。

でも、牛>鶏っていう訳じゃないだろう。
牛くんの世界とは関係なく、鶏さんのフィールドで一番を目指す。
こういうことなんじゃないかなぁと思う。

「普通」とか「クズ」だとか使って、一段上のみんなのヒーローになろうとするから、
僕らはそこに、かりそめの希望や儚い勝利しか見いだせなくなる。
自分のフィールドで頑張ってみて、違うなぁと思ったらそのフィールドを疑ってみる。ただそれだけでいい。

 

hankakueisuuさんの熱い記事を読んで、触発されてしまいました。
僕自身への戒めとして。