ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qを観てきた

初日2回目の上映を観てきた。
劇場から出てくる人々の静かなざわめきと戸惑いを横目に見ながら中に入って、自分も同じ顔をして出てきた。

急激な展開に全然ついていけなくて、それでもどんどんストーリーは進んでいって、気が付いたら終わっているという感じ。前半はシンジと同じように、空白の物語にモヤモヤして、後半はシンジの行動や感情にモヤモヤしながら、観ていた。

取り留めもないけれど、ストーリーの感想を吐き出しておく。

14年ぶりに世界に戻ってきたシンジに対して、周りの扱いがひどすぎる。ストーリーに対する観客としてのモヤモヤが若干影響しているのもあるのかもしれないけど...これはミサト役の声優さんも指摘していて、ミサト自身にも14年の時間にそれだけの重みがあったということが推測されてる。なんか人々の心の壁が厚くなってるなぁと思った。アスカも昔みたいに「ミサト」なんていう軽々しく呼んでないし。良くいえば「大人」になってるのかもしれないけど。

いろんな感想を追いかけてみると、映像を観てこれはエヴァじゃないっていう人がいて、内容を観てこれこそがエヴァだっていう人がいて面白いなぁと思った。
とりあえずストーリーに対する疑問がとめどなく溢れてきて、そこから先のメッセージのようなものを考えるまでまだ少し時間がかかりそう。
もう一回くらい観に行っておきたい。

SH-06D NERVをAndroid4.0にバージョンアップ

エヴァスマホこと、SH-06D NERVのAndroid4.0バージョンアップが来ていた。

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元になっているSH-06Dの方はもう少し早くバージョンアップされていたのだけれど、カスタマイズされているということで、一ヶ月くらい遅くなったのは仕方ないかなと。

 バージョンアップで変わったことはウェブサイトの通り。画面の表示方法がAndroid4.0の基本に沿ったものに変わってる。唯一なくなってしまう機能は、ペールビューのアニメーション表示。これは覗き見を防止するためのもので、ONに設定して画面を横から見るとNERVのロゴとかが薄く見える。バージョンアップでなくなるのは「アニメーション表示」の部分で、横から見た時に見えるロゴが点滅したり動いたりする機能が削除されている。動かない「静止画」のペールビューは今までどおり機能する。

気になっていたのは、MENUボタンの挙動について。結論からいえば、MENUボタンの挙動は2.3の時と同様だった。

Android4.0から(物理的なボタンのない)ソフトキーの端末ではMENUボタンが無くなり、代わりにマルチタスクボタンとなっている。マルチタスクボタンを押すと実行中のアプリと、過去に起動したアプリが表示される。

MENUボタンはどこに行ったかというと、それぞれのアプリケーションの中で、画面の上とか下とか任意の位置にアイコンが表示されている。それをタップすることで、詳細なアプリのメニューが見える。

アップデートしてみた結果、SH-06D NERVの物理的なMENUボタンの機能は変っていなかった。画面上にMENUボタンに相当するアイコンは表示されず、今までどおり、物理キーでMENUを呼び出せる。マルチタスクの画面を表示させるには、HOMEボタンを長押しすればいい。長押しすると、以前はアプリの履歴が表示されていたが、これがマルチタスクの画面に変わっている。ちなみにマルチタスクの画面はこんな感じ。各項目を左にフリックすると一覧から消える。

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MENUボタンは頻繁に使うので、個人的には変わっていなくて安心でした。

 

雑感
バージョンアップは嬉しいのだけれど、コンテンツも更新されるといいな。
限定数の決まっているコラボレーションモデルでは、追加でコンテンツを配信するのは難しいのかもしれないけれど...作りきりはもったいないなぁと。少しくらいであれば課金するので、現在進行形のアニメとコラボレーションすることの価値を高めて欲しい。そして、末永く使っていける端末になるといいと思う。

窓ガラスの向こう側にいる僕に、僕は石を投げつけたかった。あるいは尾崎豊特別展の感想。

尾崎豊特別展に行ってきた。
20年前、26歳で亡くなっている彼のもとには、高校生くらいの女の子から子連れの主婦やスーツを着たサラリーマンまで色んな人々が集まっていた。
みんな、社会の中で、盗んだバイクで走り出すことなんてせずにーきっとテスト勉強をしたり、運動会のお弁当を作ったり、慰安旅行で一発芸を披露したりしながらー”まっとうに”生きてきている人々だ。
それでもなぜ、僕らは彼のもとに集まるのだろう。

僕は彼の写真を見て、こう思った。人々は、自分ではどうしようもないことを、どうしようもないと決めつけて過ごしてしまうことへ、ささやかな反抗を試みているのではないかと。

「窓ガラス壊してまわった」という歌詞で有名な「卒業」のジャケット写真には、石を握って振りかぶる尾崎の拳と後頭部が写っている。その数秒後に、石は綺麗な放物線を描きながら、校舎の整然と並んだ窓ガラスの一枚にぶつかり、高い音とともにいくつもの破片が飛び散る。ジャケット写真はそんな瞬間を予測させる。
特別展では、そのジャケットの元になる全体像の写真が展示されていた。尾崎は何かを見つめて石を握っていた。
その写真を見て、気付いたことがある。彼がその先に見据えているのは、窓ガラスなんかじゃないと。石を握る彼の瞳は憂いに満ちていた。そこにはこれから破壊活動を行おうという意識の高ぶりは全く無くて、むしろ彼は落ち着いてさえいた。とてもこれから窓ガラスを割ってやろうというような表情ではなかった。
こんなのはとても勝手な解釈だけれど、彼は窓ガラスを割っても何も変わらないことをすでに悟っているように見えた。彼がそれでも石を握って向い合っていたのは、他ならぬ、ただ窓ガラス一枚割っても何も変わらないという自身の諦めに対してなんじゃないかと思う。

そして”まっとうな”人々が集まる理由もそこにあるんじゃないかと僕は思う。きっとそこに集まった人々はー僕も含めてーいろんなことに折り合いをつけながら日常を過ごしている。けれど僕らは、そうして折り合いをつけて生きていくことにどこかで憤りも感じている。そんな時にふと尾崎の歌を口ずさんでみる。声を荒げたり、殴ったりしても変わらないと分かっているからこそ、どうしようもないと言って自分に言い聞かせてみる。それでも静かに溜まっていく違和感を、道端の石ころに託して、握ってみる。そんなことでいいのかい?と問いかけながら。尾崎が26年間という短い間に感じた憤りと、それに対するあがきを、僕らもまた抱えているのだ。そしてそれを確認するためにー結局は自分が抱えていくものだ分かっていてもーしばしの共感を得るために僕らは死後20年という時が経過した今も彼のもとに集まり、彼の姿に触れようとする。

プロデューサーの須藤晃が指摘する。これは尾崎の歴史でもあり、同時に、来場者自身の歴史でもあると。僕は展示を回りながら、どうしようもないことをどうしようもないと決めつけて過ごしてしまうことへ、ささやかな反抗を試みる。同時に尾崎豊に対しても少し愚痴をこぼしてみる。なんでもっとあがきながら生きなかったんだよと。

でも、また、こうも考えてみる。もし尾崎が20年前に死なずに、今も生きてあがいていたら、僕はその姿を嘲笑せずに見ていられたかと。そして、そんな人々は案外身近にーたとえ彼らが尾崎豊特別展に足を運んでいなくてもーたくさんいるのだということに思い当たる。

石をポケットに入れながら、あがきながら、生きていこうと思いながら会場を後にした。

なんかどんなふうにおしまいにすればいいのか分からなくなってしまったけれど...

「目に映るものすべてを愛したい」(存在)

そのコーナーに飛び込めるだけの勇気を。

それは200周続く長いレースの最後の周回だった。
佐藤琢磨はINDY500のウィナーに手を伸ばし、後ほんの少しのところで夢は散った。彼はトップを走るDario Franchittiをオーバーテイクしようとコーナーに飛び込み、コントロールを失った。スモークを上げた彼のマシンの隣を何台ものマシンが駆け抜けていく。彼の目にはどんな世界が映っていたのだろう。

17位。それが彼の手に入れた結果だった。最後のコーナーでプッシュしなければ、2位でチェッカーを受けていただろう。それでも彼はラストワンチャンスに賭けた。

それはある意味、愚かなことなのかもしれない。一台の車をインディアナポリスのオーバルコースで走らせるために、どれだけのお金と人々が動いているのか。それを想像したら、表彰台を確実に持ち帰るべきなのかもしれない。

それでも琢磨は、アクセルを踏み込んだ。誰もが憧れるレースに身を置き、トップを争うことの重さを誰よりも知ってるのはきっと彼自身だ。レーサーとしての本能か確信かは分からないけれど、彼はコーナーに飛び込んでいった。

加速するエンジンの音と共に胸は高鳴り、スモークと共に僕らの夢は儚く散っていった。午前4時過ぎ、カーテンから少しずつ光が溢れる部屋で、僕はそっと溜息を吐いた。一体どうしたら、これだけ人を絶望させることができるだろう。

佐藤琢磨(とINDY500のレーサー達)はそれだけの瞬間を整え、最終周回のコーナーで一瞬の物語を演じた。もし誰だったらどうしていたとかじゃなく。琢磨はその舞台に上がり、飛び込んでいった。

 

たまらなく格好よかった。興奮で目が冴える布団の中で、もう一度僕は溜息を吐いた。

「普通の〇〇」は僕らに儚い夢を見せてくれる。

普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。 という記事を読んだ。
グイグイ読ませる素敵な文章だ。

「普通の世界」は偏在し、実在しない。

普通の女子大生なんかじゃない。
特別な女子大生が「普通の人」のフィールドに降りてきて、
約束された美しい勝利を手にしているんだ
と、hankakueisuuさんは指摘する。
hankakueisuuさんのいうとおり、
早稲田に入って、綺麗な顔立ちをしている女子大生が「普通」であるのなら、
僕だって、早く、その「普通の世界」に誘って欲しい。
「普通」を騙ることで普通の人間を抑圧する、という指摘はその通りだ。
でもね、とも思う。
本当は、
「普通の世界」なんてきっと至るところに存在していて、
「普通の世界」なんてきっとどこにも存在していないんだろう。
上澄みの層には上澄みなりの平均があって、
沈殿物には沈殿物なりの平均がある。
そしてそれが僕達の呼ぶ「普通の世界」だ。
イチゴの世界には、より甘いイチゴの世界があって、
より甘いイチゴの世界でも優・良・可が分けられる。
お互いに他の箱のいちごなんて知りやしない。
ただそれだけのことだ。

「普通」は下位のフィールドで自分を「最強」にする。

ただ、それぞれが別の「普通」の世界に生きているからこそ、「普通」は残酷だ。
なぜなら「普通」という言葉が、それぞれが生きる別々の世界の垣根を飛び越えて広まるからだ。
当たり前のように使った、「普通」という言葉が、
本当になんでもない世界に生きる「普通」の人々を、
締め上げ、揺さぶり、(かりそめの)希望を与える。
もちろん、その希望はその人の才能を目覚めさせ、本来なら成し得なかったような成功をもたらすこともあるかもしれない。
それだけならまだいい。
「普通」という言葉は、往々にして普通の人を「最強」にする。
なぜなら、それぞれが生きる別々の世界において「普通世界の成功者」としての肩書きを得るからだ。
ある日、甘いイチゴの世界で良のラベルを付けられた一粒がいう。
「私は(甘いイチゴの世界の、良という箱の中では)普通のイチゴですが、
有名パティシエによって素敵なショートケーキの主役になりました」と。
その時「普通」という言葉は、イチゴ界全体に広がり、驚きと賞賛を持って迎えられるだろう。そして、ショートケーキの上のイチゴは、自分がイチゴ界のなかでどれ程の位置に立っているかを、初めて確認するのだ。

「わたしは普通のイチゴなんかじゃないんだ」と。

弱い者たちが夕暮れ、更に弱いものを叩く。

じゃあ、甘いイチゴの世界の可のラベルを付けられた粒たちはどうするか。
ブルーハーツが歌っている通りだ。
「あたしはあんまり甘くないイチゴなんだけど、タルトにしてもらいました」という。
イチゴはもういい。
「俺ただの〇〇だから」、「しがない〇〇だもんで」、「クズだから」とかいえば、本当の「ただのしがないクズ」たちを従えて、自分たちは栄光を勝ち取ることができるんだ。
これが必勝法。
「いやいやいやいや、僕のほうが数倍クズですから。」なんてね。

鶏口となるも牛後となるなかれ。

 鶏口牛後。つまり、大きい集団の後ろを走るくらいなら、ちっちゃな集団の先頭を走れっていうこと。これって、自分より下位のフィールドで一番になるっていう、必勝法のことを表してるのだろうか。

でも、牛>鶏っていう訳じゃないだろう。
牛くんの世界とは関係なく、鶏さんのフィールドで一番を目指す。
こういうことなんじゃないかなぁと思う。

「普通」とか「クズ」だとか使って、一段上のみんなのヒーローになろうとするから、
僕らはそこに、かりそめの希望や儚い勝利しか見いだせなくなる。
自分のフィールドで頑張ってみて、違うなぁと思ったらそのフィールドを疑ってみる。ただそれだけでいい。

 

hankakueisuuさんの熱い記事を読んで、触発されてしまいました。
僕自身への戒めとして。